こころひかれる数学の世界

前々からとても気になっていた本を図書館で借りてきて、もったいぶってまだ開いていない。私の本棚でひときわ輝いているように感じる。今夢中になって読んでいる内田樹さんの『レヴィナスと愛の現象学』を読み終えたら、早くこれらの世界に潜り込みたい。

写真一番右の本は、ダニエル・タメットの『ぼくには数字が風景にみえる』。まずタイトルからしてあまりにも魅力的ではないか。ちらっと開いて読んでみたところに「1という数字は蛍光灯のように白く光っている」といった文章が目に飛び込んできて、とんでもない良書感を覚え、全身がゾクゾクした。

一番左の本は、私の大好きな小説家小川洋子さんと数学者である藤原正彦さんとの対談本『世にも美しい数学入門』。高校で挫折した数学は美しいものだったのか。だとすれば私はなんてもったいないことをしてしまったのだろう。そう思うや、いわゆる理系の人々が語るたくさんの意味不明の言葉たちが織り成す世界が、豊穣な大地に無数に命を輝かせる生態系のようにも思えてきて、実に今更な話ではあるけれど、そこにザブーンと飛び込んでみたい気持ちになってきたのだ。小川洋子さんの言葉を通してなら、その美しさに私も触れられるかもしれない、そういう大きな期待を抱かせてくれる。

ところで、内田樹さんの『レヴィナスと愛の現象学』は、自称“タツラー”の私が読んできた様々な著書の、色々なトピックから毎度毎度同じ顔をして浮かびあがってくる「内田樹なるもの」のルーツを探る中に読み始めた本だったのだけど、いまだかつてない衝撃を覚えつつ興奮しながら読み進めている。暗闇の中、先生が投げてくれる手綱を「これでいいんだよね」と何度も確認しながら一歩一歩崖をのぼっていくような感覚。実にエキサイティングで楽しい。こんな読書体験は久々。

そういう必死な読書をしているときに、どういうきっかけだったか、次の記事を見つけてしまった。読んだらなんと、今読んでいる本とほとんど同程度の衝撃と興奮を覚えたのだった。よくわからないけれど、この人の見えている世界は絶対に面白い。この人の話を聞かなければならない、という強い衝動に突き動かされた。

ノイズを受け入れる知性のもたらす功罪

話しているのは数学者だった。書かれていることをほとんど理解できていないにも関わらず、この人の文章を読めば読むほど確信するものがあった。この人を通してなら、数学の美しさに触れることができるはず。未知の世界に飛び込むことができるはずだ。そして、間違いなくその世界は美しい。

ということで、このドドド文系の私が、強烈に数学の世界に心ひかれ始めている。

生きて死ぬ私たち。生きている間にしか見ることのできない、この世の美しさを味わい尽くしたい。そのためならば、苦手だった高校数学からもう一度頑張れる!!はず...!(←既に弱気)

殺す、と隣合わせ

顔全体が鬱血して熱くなり、意識は朦朧としている。手足というものは一体、どのようにしてこの体と繋がっていたのか訳が分からなくなるほど、感覚は次第に鈍くなっていく。かろうじて残る意識は、脳内で響く脈拍のみをとらえている。もう終わりなのだろう。

早朝、高い窓から差し込む真っ白な日差しで目を覚ました。もう主人は起きていて、朝食の支度を済ませていた。我が家の朝食には、お隣で有機農業を営む吉岡さん家のサラダが欠かせない。深めの大きな皿には、手でちぎったレタスがたっぷりと敷かれ、一口大に切りそろえられたきゅうりとトマトがカラフルに散りばめられている。その上には冷水に漬けてから苦味を抜いた、白色透明なスライスオニオンがやわらかく添えられている。
「いただきます。」
この新鮮なサラダを口にする度に、私は吉岡さんの畑を初めて見たときの感動を思い出す。

吉岡さんの畑にたどりつくまで、いくつもの畑を通り過ぎた。同一種類の作物が整然とならび、自らが収穫されるのをただ無感情に黙然と待っているようであった。先導する吉岡さんが立ち止まり自慢気に指をさしたその先に小さな畑があった。今まで見た畑と本当に地続きなのだろうかと目を疑うほど、空間そのものがまるで違っていた。漆黒に近い美しい土はふかふかと柔らかく、目に見えぬ無数の生き物の息遣いさえ感じさせた。足元には驚くほど大きなキャベツが元気に並び、その向こうには十数種類の作物がひしめき合い賑わっていた。畑全体が一つの複雑な生命体となり、朝露を嬉々として浴び、生きる喜びに湧いているように感じた。

シャキシャキという咀嚼音に合わせて体に入ってくるみずみずしい野菜の冷たさと歯ごたえを十分に感じながら、あの畑の豊かな命をそのまま飲み込むように、朝食を頂いた。
「ごちそうさまでした。」
主人はじっとこちらを見つめ、何か言おうと口元を少し動かしたが、結局一言もなかった。特に会話が交わされないのはいつものことである。

その日の午後、身体を動かすために広い庭で走り回っていると、主人がずんずん近寄ってきた。そしてひょいと私を抱きあげ、そのまま軽トラに乗せた。1時間ほど経った頃、車のエンジン音が止まり、主人が運転席から降りる音がした。荷台にいた私は再び主人に軽々持ち上げられ地上にそっと降ろされた。その場にいたたくさんの人の視線が集まった。カメラのシャッター音も聞こえる。

その直後、主人は手馴れた手つきで私の手足を縄で縛り、木の枝にくくりつけた。私は、逆さ吊りにされたのである。他でもない主人が、という事実に対するショックは、抵抗する力をあまりにも簡単に奪い去り、軽く意識を失わせるのに十分だった。
周囲の人間から伝わるピンと張り詰めた空気で再び目を覚ました頃には、手足の冷たさはいや増して、天地逆となった頭のてっぺんまで全身の血が逆流してくるのを感じた。
「はじめますか。」
落ち着いた主人の声が聞こえ、指でそっと両眼を覆われると、首のちょうど後ろあたりに背筋が凍るような鋭利な刃物の先が当てられたのがわかった。

「一発で首を切り落とせず、暴れてしまい、返り血を浴びてしまいました。」

今晩は鶏の照り焼きにしようと思い冷凍庫を開けた。最近ネットで読んだ鶏の屠殺レポートを思い出し、殺されるまでの鶏の恐怖を一人勝手にあれこれ想像しながら、白い冷気の向こうでカチコチになった、「生」の面影のひとかけらもない鶏のモモ肉を取り出し電子レンジで解凍した。柔らかくなった肉をまな板に載せ、コレステロールを抑えたい母のために皮を剥いだ。皮の表面はプチプチと文字通り鳥肌が立っていて、引き剥がそうとすると、まるで必死に抵抗するように肉にしがみついて伸びた。もう死んでいるにもかかわらず、生への執着を見る思いがした。私は少しの間目を閉じて祈り、合掌する思いで調理を再開した。

豊かな自然の中で生き生きとした野菜が育ち、それを食べた鶏を殺して食べる。私たちは、自分たちの命を、こうやって自然に育まれた命をほんとうに“頂き”ながら維持しているのだ、という当たり前のことに気づかされる。「食べる」と「殺す」が実は隣り合わせにあることを忘れないように、心を込めて言いたい。

「いただきます」

大掃除

これも昨年末のことだけど、今年も使えそうなのでメモ。

■流しの排水溝の汚れ
重曹クエン酸水を足したのをかけて、お湯流しながらブラシでこする。

■水周りの汚れ
汚れを落としたい箇所にティッシュをおいて、お酢を水で薄めたのを吹きかけて、しばらくおいてからブラシでこする。

■換気扇やガス台周りの油汚れ
せっけんと重曹と水を合わせてペースト状にしたのを塗っていき、汚れがしつこい場合はラップして温めてからヘラでこする。

おせち

あけましておめでとうございます。

昨年末、思い立って、おせち作りに初挑戦してみました。
年末のアメ横のにぎわいは心躍ったし、ひとつひとつ手間かけて作るのも楽しかった。何より、母が「楽できた〜」と言ってゆっくり休めている様子で、本当によかったです。

もう味の濃い甘いばっかりの市販のものは食べられないなぁ、と思うので、来年以降も続けていこうと思います。

来年のお買いものと準備のために、今年のメモを残しておきます。

【作ったもの&必要なもの】

・伊達巻
はんぺん1枚、卵4、ハチミツ

・黒豆
祖母が送ってくれた。

・栗きんとん
栗甘露煮12〜15粒、甘露煮シロップ100g、さつまいも350g、くちなし2粒

・田作り
小魚、くるみ、白ゴマ

数の子
数の子

・昆布まき
鶏胸肉、昆布、かんぴょう、

ごぼう
すりごま

・なます
大根、ニンジン、ゆず

・酢れんこん
れんこん、赤トウガラシ

・八幡巻き
ごぼう 牛肉300g

筑前
里芋、ニンジン、ごぼう鶏もも肉、シイタケ、さやえんどう

・その他
三つ葉、ホウレンソウ、そば


※基本的に調味料類はたくさん使うので準備しておく。薄口しょうゆ。

・醤油、薄口しょうゆ
・みりん
・酒
・砂糖
お酢
かつおぶし

【来年にむけて】
・3日前から始めた方が余裕が持てそう。酢の物から。
・お買いものは上野アメ横(栗など)→吉池(足りないもの)。

街灯なき夜道

夜が更けて、車のヘッドライトが眩しく流れる高架道路のすぐ真横、高架下に続く細道には街灯がなかった。高架道路側の向かいには古い家々が並び、何軒かの曇りガラスのむこうで蛍光灯の明かりがぼうっと点いていた。帰路として避けられないこの道を、私はかつて「変態小道」と呼んでいた。

その名の由来は単純で、裸同然の変態趣味の人らによくその道で遭遇したからであった。ある時は、華奢な男が女性の下着を身に着けあからさまに照れながら早足に通り過ぎていき、ある時は筋骨隆々とした男がパンツ一丁で堂々と歩き回っていた。どこかに「変態倶楽部」なるコミュニティがあって、その道は変態の初心者から上級者まで気軽に楽しめる恰好の舞台として噂されているのではないかと思わせるほどの出没頻度であった。

この場所に対してどこか気楽に構えていたのは、彼らが通行人に危害を加えないことを経験的に知っていたからであった。だから私は、まるで夜のオバケ屋敷か変態パブにでも入るかのように「次はどんなのが現れるのかな」などと若干の期待さえ抱いてその道を歩いていた。

しかし、ある出来事からその印象は一変した。

ある晩、いつものようにこの道に差し掛かった時、遠くに小さな人影を見つけた。腰の曲がった老人の姿だった。高架下からよろよろ道を横切るように出てきたその影は、ある家の前で立ち止まり、突然、激しく、何度も何度も何かを蹴り始めた。

ゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン

私はぞっとして凍りつき、空唾を飲んだ。これは現実だろうか。
蹴りつけるたびに身体が後方へ跳ね戻るが一向に止める気配はなく、何かに憑かれているようにさえ見えた。数十回続いた頃、その影は驚くべき速さでその場を去って行った。手のひらはじとりとして、心臓の鼓動は耳元まで響き、いつまでも鳴り止まなかった。

また別の晩のこと。やはり同じ高架下から何かが現れたかと思うや、みるみる近づいてきた。全裸の男が全速力で走ってきたのだ。その両眼はまっすぐ私を捉えていた。足がすくみ、「逃げられない」と思わず目をつむったその瞬間、男の背後から車が走ってきた。男の裸体は車のヘッドライトに白々と照らされ、男は別の道に逃げ去っていった。間一髪であったが、言い知れぬ恐怖感がこみ上げ、全身が震えた。

それからというもの、その道を通るたびに、隅に溜まる暗闇が背後から全身に纏わり付いてくるかのように感じ、家々の青白い蛍光灯は冷ややかで不気味に映るようになってしまった。

半年くらいたった頃だろうか、ついに街灯が立った。ゆったり等間隔におかれた背の高い街灯は、あたかも道行く人々を見守るかのように首を垂らし、夜になると光の粒子を柔らかく降り注いだ。得体の知れぬ暗闇はどこかへ追い払われ、代わりに平凡なアスファルトが慎ましやかに現れた。道沿いの民家も、心なしか安心したように生活の賑わいを覗かせている。

つい最近、あの時と同じ場所に、あの影と同じ、腰の曲がった小さな老人が佇んでいた。誰かに話しかけているような声は聞こえても、歩行者は誰一人として一瞥もくれることなく通りすぎていた。

私だけ見えているのだろうか。まさか。
目前を行く人影に隠れながら近づいていくと、老女が回らぬ口で語りかけていた。

「遅くなると、ここらへん危ないから、気ぃつけて」

私は安堵した。
「ありがとう。おばあちゃんも、気をつけてね。」

老女はたくさんの皺を寄せ、明るい笑顔を見せた。もしかして街灯の光は、人々の心の影をも祓い去ってくれたのだろうか。

横に座った人

夕方頃の電車は人もまばらで、窓から差し込む夕日がゆったり座る乗客たちを照らしていた。私は一番端の席に手すりに寄りかかるように座った。足元の暖房で全身が温められてくると、いつのまにか空白の眠気の中でまどろんでいた。隣に誰かが座ったと気がついたのは、歩み寄る何かの気配以上に、鼻腔全体にまとわりつくような悪臭が至近距離に留まったことを感知したからであった。

ついさっきまで生魚を調理していたのか、それとも市場で魚を買ってきたのか。ここにたどり着くまでに幾度も吹き付けたであろう冬の外気など物ともせずに、魚の臭いをそのままパックしてこの閉ざされた車両の中で今まさに開封しましたといわんばかりの新鮮な生臭さであった。

その臭いによって完全に意識は覚醒したものの、目は閉じたまま、帰宅ラッシュが始まりかけていたのを電車に乗り込んでくる人々の足音で感じていた。人々の目線があるかもしれない中で、真横にいる人の顔をいきなり見ることは不自然であるし失礼かもしれない。しかし、この臭いの原因が気になって仕方がない。私は目を少し開け、うつむいたまま視線を隣人の方へ寄せた。

スーツの裾から出ていた足は裸足のまま地べたについていた。

「裸足!?」さっきまでの躊躇いはどこへやら、私はすぐさまその人の顔を見上げた。スーツの襟元から伸びていたのは、銀色の光沢の、まぎれもない、魚の頭部そのものであった。

というようなことを、帰宅するなり母がベラベラ話していた「電車で隣に座った靴下履いていない生臭い人」の話を聞きながら、ひとり想像していた。

ゆずりあい

オフィスには観葉植物のパキラが2本ある。

ある時、一方のパキラの中に個性の強そうな葉っぱが誕生してからだったろうか、水遣りの度に妙な感情になった。他の葉っぱがその個性の強い葉っぱに対しておびえているような気がしたのだ。まさかそんなわけあるまいと思い直し、暫く放置していたら、今度はすっかりやさぐれてしまったような荒れた感情のようなものを受け取った。

寒くなってお水もあまりやらなかったし、散髪もしてやらなかったから「お世話して!」と迫られてるのかもと思い、久しぶりに葉っぱの様子をしっかり見に行くことにした。ちなみにもう一方のパキラは静かに落ち着いており、特に何も感じることはなかった。

よくみると、最初のパキラの葉っぱの多くは、「我先に」といわんばかりの勢いで他の葉っぱを押しのけて伸び、大きく太陽を浴びることのできる場所を陣取った葉っぱは生き生きとしている一方で、その競争に負け日陰になってしまいしんなりとしたり、太い茎に絡められてぐったりしている葉っぱもあった。そうか、なんとなく殺伐とした感じがあったのは、この日光の奪い合いが繰り広げられていたからなんだ、と思った。

一方、落ち着いた印象のあったパキラは、茎が絡まりあうこともなくどの葉っぱも同じ位の大きさで元気な緑色に育ち、太陽の光を浴びるためのポジションを見事に譲り合い、のびのびと葉を伸ばしていた。

生きるためのリソースが有限であるとき、奪い合うよりも分け合う方が全員が生き延びられる可能性が高い。そして何より、その生き様が美しい。パキラに改めて教わったこと。