思考の癖が身体にそのまま表れる

例えば本を読んだり人の話を聞いたりして、様々な気づきと出会うことは良くあるのだけれど、自分自身の思考の癖と否応なしに向き合わされ、とんでもなく大きな何かでドカーンと一発ぶん殴られるほどの気づきに出会うことって、そんなにないだろう。

韓氏意拳のお稽古に初めて参加させていただいた時の私がそれだった。ごまかしなど一切きかない、ありのままの自分がそのままたち現れてしまうのだ。おかげさまで、一週間はぐったりとして、数ヶ月にわたって日常生活で自省する機会をいただけた。

とらわれないこと

ただ両手を下から上にあげるという動作をするにも、先生に手首をつかまれると、どうしてもその部分のみに意識が捉われてしまって、身体全体の力がその一点に集中してしまう、先生は「持っている」だけであるのに、私には「押さえられている」と抵抗感を勝手に感じ、なんとかそれを退けるように力を入れようとしてしまう。するとかえって、抵抗感が強まって腕は全く上がらない。

「とらわれない。ただ上げればいい」

ちょっとした外界からの刺激を受けたとき、それで心がいっぱいになると、つい視野が狭くなってしまう。本来、障害でも何でもないものに対してでさえ、自ら抵抗を感じて疲労してしまう自分自身というものを反省した。

コントロールしようとしない

「ただ上げればいい」というのはとても難しく、先生の手から逃れようと思った瞬間に自分の動きを先に思い描いてしまう。思い描いたとおりに身体を動かそうとしてしまう。すると、まるで無限の可動性を一挙に限定してしまったごとくに硬直し、一層抵抗感を覚えてしまう。思考と無関係に心臓が動き、呼吸は続くように、思考に縛られないところで身体は既に多くのことを“知っている”。

何でも自分の思うとおりにしようとする狭い器と、先に思い描かなければ踏み出せない臆病な心を反省せざるをえなかった。

相手に預けすぎない 本末転倒にならない

「思い描かない」を意識しようとすると、今度は力が抜けてしまう。自分自身でしか自分の身体を動かすことは出来ないのに。あくまでも私はここにいる、という意識をはずしてはいけない。地に足をつけ土台があるからこそ、しなやかな動けるはずの身体の可能性を信じることが出来る。重心そのものを相手に預けすぎては本末転倒になってしまう。

辛かったり分からなかったりするときに、まるで魂が抜けたみたいに心が一目散に逃げてしまうことがある。頭が真っ白になって動けなくなる。通常それは、自らの命に危機が迫った時に、パニック状態にならないように生じる「正常化反応」というものらしいのだけど、私の場合その閾値が低いようで、誰かが火事で亡くなったというニュースを聞いたり、何かの誤作動でセコムの警報機がなったりするだけでボケーっとしてしまう。

ちょっとしたことで女子らがやる「ギャー!!」という大騒ぎをしないので、私はずっと、自分は心が強くて落ち着いてるんだと思い込んでいたのだけど、真逆だった。大騒ぎしないのではなくて、それすらもできないんだった。

身体の動きから教えてもらったこと

お稽古後の印象について、世話人のユンさんに「漫画みたいに、頭から白い煙が出てましたよ」と言われる程の衝撃だった。自ら描いていた「自分像」には多分に「理想像」が入り込んでいて、実体はそれとは相当に掛け離れたものであることを、文字通り痛感させられたのだった。また、身体は思考するよりはるかに多くのことを“知っている”ということにも気づかされた。そうらしいことはなんとなく前から気づいてたけれど、全身で“思い知った”感じ。

「猛省せざるを得ない」そう思ったし、今でもまだそれは続いている。
これからはもっと身体の可能性を信じて、身体から多くのことを学んでいきたいと思う。こんな衝撃体験を他でしたことがなかった。本当に素晴らしいと思う。また行こうと思う(この時の衝撃が強すぎてまだ勇気でてない)。