光のあたらないかけがえのないもの

小川洋子さんの眼差し
小川洋子さんの小説が大好きで仕方がないのは、光があたらないものや、言葉をもたないものの、殆ど消えてしまいそうな微弱な息遣いを聞き逃さずに、温かい眼差をもって優しく掬いあげようとするような慈愛を感じるからなのだと思う。

『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公リトルアリョーヒンが心を寄せ傷めた、デパートの屋上から降りることができずに死んだ象や、家と家の隙間から抜けられなくなって死んだ少女ミイラも、またチェス盤の下に姿を消したリトルアリョーヒン自身も、『ミーナの行進』でミーナの母親が本や雑誌のあらゆる文章の中から見つけ出そうとしていた誤植たちも。

世の中から見向きもされなくなったり、すっかり忘れ去られたりしてしまったものに心を痛めて、たとえ他の誰にも評価されなくても、それ以上傷つくことのないように息をひそめ、そっと両手で掬い上げようとする優しさが心の奥深くまで沁みてくるのだ。

彼女の自筆のメッセージだけでそれ以上多言は要しないだろう。

「どうか見つけてください。」に涙が出そうになるよね。

たくらみゼミでの森田さんのお話

その小川洋子さんによる『世にも美しい数学入門』という対談本を読み、数学の美しさが想像を絶するようなものであることを直感した頃、たまたま読んだインタビュー記事で数学者森田真生さんという方の存在を知った。「数学の演奏会」なるものを主催している。どんなにわけがわからなくてもいいからお話を聞いてみたいと思い「たくらみゼミ」に意を決して参加してみた。

本当ならば理系の人たちの数式だらけの難しい時間になっていたはずだろうと思うのに、思いがけず人数が少なくて自己紹介をすることになり、私が「ド文系」であることを明かしてしまったので、森田さんは「初めての人もいることだから」と言って、文系人にもわかるような話を織り交ぜつつ、直線のお話からし始めてくださった。

そのとき読んでいた『レヴィナスと愛の現象学』とシンクロする部分がかなりあって脳内で本の内容と森田さんの話している言葉を概念的に結びつける作業は刺激的だったし、なにより「ド文系が一人いる」ことへの森田さんのご配慮によって、ゼミの時間のほとんどを驚きと感動をもって楽しむことができた。

その中の一つのお話は、ミーナの母親の誤植探しの様子を彷彿とさせた。

そんな気持ちになっていると、森田さんは今度は計算不可能数がなければ直線はすっかりスカスカになってしまって、私たちが当たり前に使っている計算が出来なくなることをお話してくださった。簡単には記述しきれないもの、扱いにくいものの存在の尊さ。計算不可能数あってこその計算可能数。

すぐさま私は、私たちの命を支える大自然、今ある私の命をつないできてくれたご先祖様、個々が尊重される暮らしの土台となっている社会制度、またそれを大変な苦労の中で築き上げてくれた人々、面倒なことだけれど誰かがやらなければ社会がたちゆかなくなる「雪かき仕事」をしてくれる人々などを思いおこし、光はあたらないけれど、間違いなく、今ある私を支えてくれている様々なものに深く感謝した。

いかに「当たり前」が目に見えぬかけがえのないものたちに支えられているか。

見えていることは、たいしたことではない。その向こう側に隠れている見えないことを捉えるための手がかりにすぎない(森田さん)。

まさに。